診断不明例について

述べたさまざまな方法を試みても診断できない先天異常症候群の症例が実際には多い。定期的な診察により診断にむけて努力を続けること、技術の進歩により、将来新しい検査法が利用できる可能性が十分期待できること、確定診断が付かなくでも、必要な医療ケアを準備することが可能であるし、また担当医にそのような準備があることを患者・家族に伝えることは重要である。近年、Human Phenotyping Ontology(HPO)を用いた鑑別診断のリストアップや、国家的なプロジェクトとして進められているInitiative on Rare andUndiagnosed Diseases(IRUD)によるエクソーム解析という新しいリソースが利用可能となったので、下記に補足する。

Human Phenotype Ontology

患者の症状データを診療や研究に効率的に活用するためにHuman phenotyping ontology(HPO) といわれる手法が注目されつつある。HPO では、ヒトの疾患において認められうる症状名や異常な表現型に関する術語を網羅的に標準化し、症状名と症状名の関係を数学的に記述している。Human Phenotype Ontology( http://human-phenotype-ontology.github.io/)

HPO はオントロジー体系の一種である。オントロジーとは、知識体系を構成する術語と術語の間の意味的な関係を記述した知識体系である。術語は標準化されており、標準化された術語の間の意味的な関係についても定義が行われる。HPO は術語として症状名を取り扱っており、表現型の異常(例えば心房中隔欠損)を標準的な術語を用いて記載する。遺伝性疾患について、約11,000 の症状名を提供している。上記に加えて約4000 の比較的頻度の高い疾患に対しても、標準的な症状名を提供している。

ここでHPO が取り扱うのは、症状であって病名でないことに注意されたい。一般に病名は症状名の組み合わせによって決定されるが、HPO が扱うのは、個別の症状名である。たとえばある患者に心房中隔欠損と拇指の欠損があれば、疑われる病名はHolt-Oram 症候群となる。心房中隔欠損と拇指欠損の各々の症状名について、別々のHPO のコードが割り振られている。心房中隔欠損はHP:0001631(atria septaldefect)、拇指欠損はHP: 0009777(absent thumb) である。Holt-Oram 症候群に対してHPO のコードは割り振られていない。なお、HPO とは別に病名を表現するためのオントロジーの体系(Diseaseontology)が発表されている。代表的なDisease ontology はICD11 である。ただし、患者のもつ症状が心房中隔欠損のみであれば、患者の病名は心房中隔欠損となる。

HPO における症状名間の上位・下位関係

 HPO は症状名を標準化するという重要な役割を果たすと述べたが、HPO は症状名の間の意味的なつながりを定義する役割も果たす。ある症状名は概念的に一般性の高い症状名あるいはより特殊性の高い症状名と関連している。例えば、「心房中隔欠損 HP:0001631 (atria septal defect)」という症状名は「心臓中隔の異常HP:0001671 (abnormality of cardiac septa)」という症状名の「下位(「孫」)」にあたる症状名である。ある症状名が、複数の「上位」にあたる症状名を有する場合がある。「心房中隔欠損」という症状名は「心臓中隔の異常 HP:0005120 (Abnormality of cardiac atrium)」という症状名の「下位(「子」)」にあたる症状名であるが、「心房中隔の異常 HP:0011994 Abnormality of the atrial septum」という症状名の「下位(「子」)」にあたる症状名でもある。このような症状名間の「上位・下位の関係」を定義しておくと、複数症例が有している症状名のリストの類似性を数値化したいときに、ある症状名について一致しない場合にも、当該症状名の上位ないし下位の症状名と一致するかどうかを評価することが可能となる。オントロジーを用いて表現型情報を記載することの利点は、症例間の類似性を評価する際に、症状名間の意味的な関係を活用することができる点にある。例えば、心臓中隔異常について検索をしようとする場合に、心臓中隔異常という症状名の他に、下位関係にある症状名すなわち心室中隔欠損や心房中隔欠損も併せて検索することが可能となる。全HPO のリストと、上位・下位の関係はウェブサイトで閲覧可能である。また、HPO のデータを全てダウンロードすることも可能である。http://compbio.charite.de/hpoweb/showterm?id=HP:0000118

Human Phenotype Ontology の構築

 HPO は現在、ベルリンCharite 大学とMonarch Initiative というコンソーシアムにより開発されている。HPO の構築にあたっては、各種の医学論文、ヨーロッパの稀少疾患データベースであるOrphanet、英国の発達遅滞のゲノムデータと臨床症状のデータベースであるDECIPHER と、臨床遺伝学分野を代表する疾患データベースのOMIM が参照されている。OMIM は遺伝性疾患に関する情報で最も重要な情報源である。OMIM は、50 年前にジョンズ・ホプキンズ大学のマキュージック博士により創始され、毎日のように更新が行われており、世界中の遺伝学者や臨床遺伝専門医により日々の診療や研究のために使われる金字塔的なデータベースである。しかしながら、OMIM に使われる症状名は標準化されていない。HPO を開発したグループはOMIM に掲載されている全疾患について、疾患毎に観察される症状をHPO のコードの集合体として体系化して公開している。

稀少遺伝性疾患の鑑別診断のツールとしてのHPO

 診療を進める上で最も有用なHPO の用途は、稀少疾患や遺伝性疾患の診断における鑑別診断のリストの作成であろう。適切なタイミングにおいて、正確な遺伝子診断が行われれば、不必要な医学的検査を避けられるのみならず、適切な治療法や医学的管理を行い、適切な遺伝カウンセリングを提供することが可能となる。しかし臨床遺伝学の領域では鑑別すべき疾患の数が非常に多いために精確な診断をつけることは容易ではない。さらにメンデル遺伝病や染色体異常では症状がきわめて多彩である上に、多数の疾患は部分症状を共有し、患者毎に症状の重症度が異なっている。このような理由から、稀少疾患・遺伝性疾患の分野では、人工知能のアプローチの実現が期待されていた。このような背景を受けて、HPO の開発者は、遺伝性疾患の臨床診断を補助するためのウェブサイトとして「Phenomizer(http://compbio.charite.de/phenomizer/)」を開発・公開している。幅広いユーザーに無料で自由に使用可能である。ユーザーが臨床症状を入力すると、HPO のリストに変換される。ユーザーにより入力された患者のHPO リストは疾患毎のHPO のリストと逐次比較される。類似度は数学的に計算され、鑑別診断のリストが提示される。候補疾患毎に、診断の確からしさがP値として表示される。P 値の算出にあたっては、特異度という観点から互いを最も良く区別しうる症状に重み付けを与えるようなアルゴリズムが使用されている。なお、Phenomizer は実際の専門家の能力を再現するコンピュータ・ソフトウェア(エキスパート・システム)として開発されたわけではなく、むしろ、Phenomizer は人類遺伝学の分野における専門家が、鑑別診断の過程を進める際に、手助けになるようにと開発されたシステムである。自動診断を行うのではなく、ユーザーが臨床的に判断を行う必要がある。

未診断疾患プロジェクト・IRUD

 医師・研究者間の患者データの共有手段としてHPO が用いられている。特に、患者比較のためのフレームワークの重要な構成要素として、HPO が活用されている。HPO データを利活用して複数の患者間の病状・病態の類似度を数学的に算出し、類似する患者を見出すことが出来る。既存の医学知識体系にとらわれることなく、多数の患者の類似度を評価可能な方法論は、機械学習理論における「教師なし学習」に相当する。HPO データにより記載される表現型データと次世代シーケンサーにより得られる遺伝子型のデータを他施設の医師や研究者と共有する方法として、種々の方法(ソフトウェア)が各国の研究者により提案されている。

 HPO は国内外の未診断疾患プログラムにおけるデータシェアリングに活用されている。未診断疾患とは、臨床的に病名診断がつかないものの、症状が多臓器に及んでいる、家族内発症している等の理由によって、単一遺伝子病が想起される病態を指す。「未診断疾患」の患者は長年にわたり多くの医療機関・診療科・医師を渡り歩かねばならず、英語で「Diagnostic odyssey(診断のための長い遍歴)」と呼ばれているが、わが国においても状況は同様である。未診断疾患の患者の原因診断の方法として、エクソーム解析など網羅的な遺伝子解析方法が注目されている。米国では2008 年から国立衛生研究所(NIH)は未診断疾患プログラム(Undiagnosed Disease Program: UDP)を開始し、7 医療機関、1 コーディネーションセンター、2 DNA シーケンシング施設をネットワーク化(https://undiagnosed.hms.harvard.edu/) し、これまでに20 以上の新規疾患を発見している。また、英国では、先天性神経疾患領域を中心に未診断疾患の研究が行われている(Deciphering Developmental Disorders Project: DDD)。

 わが国においては、日本医療研究開発機構により「未診断疾患イニシアチブ(Initiative on Rare andUndiagnosed Diseases: IRUD)(http://www.amed.go.jp/program/IRUD/)」という国家プロジェクトが2015 年の夏に開始され、1 年間で全国から1000 家系を越える患者・家族がプロジェクトに参加した。著者の施設もIRUD 拠点の一つであり、未診断疾患患者の診療とゲノムデータの解析を担当している(http://cmg.med.keio.ac.jp/irud/、下記連絡先参照)。2000 名を越える患者・家族のご協力をいただいている。分子遺伝学的確定診断率は約25%であった。これまで全く知られていなかった新規疾患も同定されている。

 網羅的遺伝子解析に基づいて、新たな疾患概念の確立を目指す場合、「極めて類似した表現型を有する非同一家系の2 名以上の患者について、同一遺伝子内に病的変異」が同定されることは必要条件である。しかし過去に記載のない稀な病態について、2 名以上の患者の存在を確認することは容易ではない。2 名以上の患者が同一施設に通院している可能性は低い。これらの理由により、新規疾患概念の確立のためには、患者間の表現型データとゲノムデータを系統的に比較するためのフレームワークが必要となる。多数の患者の中から、類似症例を探し出し、疾患概念の再整理や、新規疾患概念の確立を試みる「ビッグデータ」のアプローチといえる。多数の患者間の類似性を評価するために、HPO が活用されている。各国の種々の未診断疾患プログラムの間でHPO 形式のデータを交換するためのプロトコルとしてMatchmakerExchange(http://www.matchmakerexchange.org/)が提唱され、国際標準として普及しつつある。共通プロトコルの運用により、異なるソフトウェアのユーザー間でも、類似症例を検索・比較・連携することが可能となっている。国際的には、HPO のコードの組み合わせとしての患者データには個人情報は含まれていないと考えられている。
https://clinicalgenome.org/site/assets/files/2754/knoppers_ga4gh_consent.pdf


国立成育医療研究センター IRUD-P事務局

e-mailIRUD-P@ncchd.go.jp
電話03-5494-8137

慶應義塾大学臨床遺伝学センター IRUD事務局

e-mailirud@skip.med.keio.ac.jp
電話03-5363-3906